勤労青少年へ商業教育の扉を開く
1948年(昭和23年)
1948年(昭和23年)、戦後の学制改革により6・3・3制が発足し、本校も新制高校「新潟商業高等学校」と名を変えて男女共学を実施した。そしてこの年の6月、新制高校に定時制課程を設置できる事となったが、これは勤労青少年に高校の門を開放する、極めて有意義な制度改革であった。
本校においても6月1日付けで定時制課程が設置され、2学級が発足、64名が入学を許可された。さらに9月に補欠募集を行い36名が入学、計100名で授業が開始された。当初は男女共学をとらなかったため、入学者は全員男子であったがその経歴はまちまちであり、旧制中等学校卒業者または中退者・青年学校修了者・旧軍関係所学校の出身者などが混在し、年齢も10代から20代まで、中には2人の子供を持つ者もいたという。
しかし、未曾有の混乱時代に向学心に燃えて入学した生徒だけに、授業態度は極めて熱心であり模範的であった。
翌年には定時制生徒会も設立され、校内行事、部活動も活発に行われていた。
学校側の条件整備に伴ない、1952年(昭和27年)4月から男女共学制を採用し、初年度は6名の女子生徒が入学した。以後、女子生徒の入学者数も増加していった。
本校定時制中心校は入学希望者増加に伴ない、1953年(昭和28年)には3学級に移行し、1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)の間は在籍者数が500名を超え、数の上でも定時制課程中心校の全盛期となった。この頃の生徒は極めて自主的に活動し、運動
会・校内大会・文化祭・予餞会・弁論大会・珠算大会などあらゆる行事にすばらしい創意と積極性を示し「これが仕事を持ちながら学んでいる定時制生徒にできることだろうか」と見る人を驚かせるほど内容の充実したものが多かった。
クラブ活動においても夜が更けるまで練習し、最終バスが無くなり徒歩で帰宅する生徒も多いといった活発な状況であった。特に珠算部は全国定時制大会優勝を始め輝かしい成果を納め、新潟商業定時制珠算部の名を全国に轟かせた。卓球部(男子)も県大会、北信越大会で優勝を重ね、黄金時代を築いた。他にも野球部、女子バトミントン部、籠球部、相撲部なども素晴らしい成績を納めている。
しかし、1961年(昭和36年)からは入学希望者が減少に転じ始める。終戦後15年程を経て高度経済成長が始まり、生活水準が上昇する中で全日制高校への進学率が高まるにつれ、定時制課程各校は入学者減少に直面していくようになる。こうした事情を背景に、定時制の統廃合の動きが活発化することとなった。1966年(昭和41年)、県当局より定時制中心校を廃止し、定時制独立高へ統合という方針が伝えられる。この構想に対しPTA・同窓会・学校ともに「伝統ある新商定時制中心校を残して欲しい」という立場に立ち県当局へ陳情を行い、生徒会も生徒総会の場でこの問題を話し合うなど、存続へ向けての動きがみられた。しかし、県当局からも「一挙に新設高校へ統合を行わず、新年度入学者から学年進行で移管する」と譲歩を見せたため、諸般の事情から止むを得ないものと納得され、平衡することとなった。1967年(昭和42年)から県立船江高等学校の開校に伴い定時制中心校の募集は停止された。
そして1970年(昭和45年)最後の第20回卒業生を送り出した後、3月7日に閉校記念式典が挙行された。こうして22年間にわたり1646名の卒業生を送り出した定時制中心校の歴史に幕が下ろされることとなった。
新潟県立船江高等学校
1967年(昭和42年)に開校した定時制課程独立高等学校。新潟商業高、新潟南高、新潟中央高の定時制課程を統合して設立された。直ちに独立校舎を持つことは困難であったため、当分の間校舎を新潟商業高と共用することとなり、1968年(昭和43年)には同校敷地内に管理棟が建設された。しかしその後も独立校舎建設は実現せず、2004年(平成16年)に県立黒埼高・県立新潟高通信制課程と共に県立新潟翠江高等学校に統合される事となり、募集停止。2007年(平成19年)3月に閉校した。